川留稲荷神社の建立と奉安

盛岡不来方城の築城は慶長3年から寛永10(1633)年の36年間かけて完成したといわれています。この築城にあたり中津川がたびたび洪水となって川岸を崩壊させることから、時の藩主が普請奉公の建議を受け建立したのが川留稲荷神社で今から約300年以上前の貞享2(1685)年落成の由緒ある古いお社です。明治4年、廃社となって一時住吉神社に合祀となりましたが、この年の大洪水に堤防が危うく崩れそうになったことから、三田義魏(創業者義正の父)が提唱して加賀野久保田の旧位置に再建立し崇敬しました。明治31年4月9日の三田導火線工場爆発により被災、川留稲荷神社も類焼してしまいますが直ちに神殿を再建して寄進しました。明治43年9月3日にはまたも大洪水が襲来して川留稲荷神社が流出してしまいますが、御神体は無事発見されたので、店主義正は所有地を分割して社殿を造営。このところに遷座したのは大正5年11月のことでした。その後、川留稲荷神社の維持費は三田家が支出しており、現在でも7月28日にここの境内で行われる祭典は三田グループが中心となって行っています。